目次 1.「掘ってはならない」 2.「地」とは何か
1.「掘ってはならない」

物であふれた時代である。 いつからそれは、はじまったのだろう。

イギリスでおこった産業革命。風に頼らずに蒸気を動力に変え世界の海を渡る力を手に入れた。 貿易によって巨(虚)万の富を得た一部の人。 彼らによって経済中心の政治となり物質主義がはじまった。だが、ほんとうに、そうなのだろうか。

ところで、いつから人は、動物ではなく「ひと」となったのか。 現代人の感覚の中に動物と言う言葉に「ひと」は含んでいない心が観てとれる。

アメリカン・インディアンは、木を「森のひと」、フォエール(鯨)、オルカ、イルカなどを「海のひと」と呼び、狼に対し「兄弟」という認識を持っている。 彼らは、他の生命を尊重し、尊敬し、畏敬の態度を持って接している。 そのような精神性を、今も有する謙虚な人々が、この地球上にまだ居ることを知っておいていただきたい。

その彼らは言う。 「地を掘ってはならない」と。

大地が必要にして必然の時に与えてくれる恵みの物で生きることは、精霊とともに生きることなのだ。 大事な事は、必要と必然という「約束の時」なのだと言う。 掘り出したものは、その「約束の時」を無視し、くすね盗って造り出した物であるから、精霊が宿ることはないと言うのだ。 (文 byKOH)

2.「地」とは何か 記事のTOPへ  

では「ち=地」とは、何んだろう。日本人の智恵に観てみよう。

「ち」は、「つち=土」の「ち」である。 生物(植物や動物や昆虫など、ありとあらゆる生命体)の累々たる死がもたらした連鎖の恵みが「ち」なのである。 そしてそれは、私達の身体に流れる「ち=血」に繋がると考えていた。

「ひと」の原意を考えてみよう。「ひ」とは、霊(ひ)の意であり、それは魂の「たま」も同じである。 「と」とは、「ところ(所・処)」の「と」である。 「いのち=命」とは、その「ひ」が身体(肉体)に宿った状態であり、「ひ」が抜けた状態が「死」なのだと考えていたのである。 そして死によって「ひ」は、「産まれた地(ところ)」に還るのだ。「ひ」は、死後「ち」に在り、生きている間は身体に在る。それぞれを拠り所にして循環していると考えていたし、地から出来た岩や地から生える木にも同じく「ひ」は、宿ると考えていた。むしろ巨岩や巨木は、人よりずっと長い時間を地で過ごしている尊厳の対象ととして観ていたのである。

「掘ってはならない」とは、その「地」から与えられたる物で生きることを示している。それが彼らインディアンの祖先と精霊との間での定め事であり掟なのだと言う。かつて日本も「万物に神(魂)が宿る」としてきた。 石や岩にも、神は宿り、刀などの道具にも魂が宿るとして来た。 大事な場面では、道具に「魂を籠めろ」と言う表現も通じて来たのである。

多くの民族が、かつてこのような認識を共通として持っていた。 岩や木、そして時に鉄などにも、民族それぞれの思想に基づく「精霊」や「霊」や「魂」や「神」は、宿ると考えていたのだ。それはそれらが、かつては生物の肉体であったという認識に立っているからに他ならない。物をただ合理的に理解する現代が、欲望に任せて手にする物とは、この点で思想的に、いや哲学的にも、信仰的にも決定的に道を分かって当然である。 (文byKOH)