「逝き方」では、山<森や川、そこに住む全ての生き物を包括する意味での>を歩く事を軸にしての逝き方をを提案させていただいております。
●記載について 「題」がないものは書き掛けです
今も忘れられない西部劇の映画のシーンがあります。 「そろそろ逝くか」とインディアンの長老が言います。息子達は、「まだ逝くな」と止めるのですが、「いやもう充分に活きた、それに空を飛びたくなったのさ」と笑いながら、でも真剣に言うのです。彼は鳥葬で死にたいと、息子達に高棚を作らせます。ニ段ベットのようなものです。 「今日は天のスピリットへの使者である鷲が舞っている。死ぬには最高の日だ」その上に横になるのです。 彼の望みは、その鷲に食べて貰って、その肉体の一部となり鷲の命の一部となって活きたいのだというのです。 それから7日たって「カラスでもいい」と呟き、彼は望みどおり逝ったのです。 ちなみにインディアンにとってのカラスは賢者の象徴ですので誤解のないように。
山での逝き方
「逝き方」を考えた事は、ありますか。 病気で、事故で・・・とマイナスのイメージでならありますか。一生を全うし大往生で「死ねたらいいなあ」と思いますか。 「活き方」の対極として人として唯一絶対の対として在るのが「逝き方」です、と言っても解りにくい話です。 「歳を重ねる」、「歳を取る」という言葉があります。 この世に生まれて1年という単位でもって年輪を重ねる、つまり加算的活き方です。 「歳を取る」とは、この世に活きることのできる年齢を自ら定め、その歳から1年づづ取る、つまり減算的活き方です。「、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり・・・」の信長はこちらです。 重ねて活きて活きてこれたかと自分自身に問いかけると、胴の周りのみ、歳を取れたかには、髪の毛が減ったなあと・・・苦笑する自分が居ます。
最終更新年月日 2010年1月2日15時00分
「重ねるて活きるなら寿命もしくは宿命」、「取って生きるなら運命もしくは天命」でしょうか。 重みを増す活き方をするか、命を燃やす活き方をするか、それとも何も考えないで生きるか。 どれを意識して活きようとするかのか、その選択に善し悪し、正しいとか間違いとかはありません。 在るのは、ただ「望み」だけなのです。 大切なのは何を望んで活きるのか、この世で自分自身を何に活かそうと望むのかなのです。 その答えが見つかるまで人は繰り返し己に問い続けます。「この世に生まれて来た意味は何か」と。 輪廻転生というものが、あるのならば、その意味は、その答えが見つかるまで繰り返される命の、いや魂の循環システムのかも知れません。
<今日は死ぬのにもってこいの日・タオス・プエブロの古老の言葉> 今日は死ぬのにもってこいの日だ。 生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。 すべての声が、わたしの中で合唱している。 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。 今日は死ぬのにもってこいの日だ。 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。 わたしの畑は、もう耕されることはない。 わたしの家は、笑い声に満ちている。 子どもたちは、うちに帰ってきた。 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。 「今日は死ぬのにもってこいの日」ナンシー・ウッド著 ハウエル画 金関寿夫訳めるくまーるより引用